草創期

丸の内での事務所開設

※三菱仲14号館 (出典)三菱地所株式会社 「丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史」
※三菱仲14号館 (出典)三菱地所株式会社 「丸の内百年のあゆみ 三菱地所社史」

岩田合同法律事務所の歴史は、司法大臣・日本弁護士連合会会長・貴族院議員を歴任した(注1)岩田宙造弁護士(法学博士)が、明治35年(1902年)、築地に「岩田宙造法律事務所」を開設したことに始まります(以下、岩田宙造法律事務所時代の当事務所を「岩田事務所」といいます。)。
その後、明治39年(1906年)には、我が国初のオフィス街であり、当時「一丁ロンドン」と呼ばれた丸の内の三菱仲14号館(注2)に事務所を移転させ、旧丸ノ内ビルヂング(丸ビル)に移転するまでの長い間、同地において、日本における企業法務を中心とする法律事務所の草分けとして、所属弁護士を増加させながら発展を遂げました。

(注1)昭和36年(1961年)には、一般財団法人国民政治協会の前身である財団法人国民協会の初代会長に就任しました。
(注2)三菱ビルに隣接する旧三菱重工ビル(現、丸の内二丁目ビル)の敷地が、三菱仲14号館の跡地です。

専門分野の確立

岩田宙造弁護士は、山口県熊毛郡立野村(後の周防村・現在の光市)で生まれ育ち、東京帝国大学英法科に進学しました。
岩田宙造弁護士は、同大学在学中、隣村(山口県熊毛郡束荷村)出身であった伊藤博文と親交を持つようになり、同人から経済的援助を受けるなどしながら政治活動に対する関心を深め、同大学卒業後には、伊藤博文から紹介を受けて新聞社に就職し見聞を広げることにします。
その後、岩田宙造弁護士は、もともと職業として最も関心の強かった弁護士に転身することとし、岩田事務所設立当初、銀行業務のほか、海上保険を中心とする海運関係の専門家になろうと考えました。
そこで、伊藤博文に、日本銀行と日本郵船への橋渡しを願い出ます。この大胆な申出が功を奏し、岩田宙造弁護士は両社の顧問として迎えられます。さらに、岩田宙造弁護士は、宮内省、東京海上火災、三菱銀行、日本勧業銀行の各顧問弁護士にも就任しました。

海商法及び海上保険法を研究した岩田宙造弁護士は、「下関港における梅ヶ香丸白昼沈没損害賠償事件」「釧路港の竹の浦丸沈没保険金請求事件」などの解決に尽力し、海事審判の専門家として盛名を馳せるようになります。さらに、岩田宙造弁護士は、日本銀行の法律顧問として、銀行業務に関連する法律問題に関して多くの意見書(法律鑑定書)を作成しました。
その後、岩田宙造弁護士は、我が国の中央銀行のみならず、植民地下にあった台湾や朝鮮の中央銀行、現在の電力会社にあたる東京電燈等の有力企業からも意見書作成の依頼を受けるようになり、民・商事に関する法律鑑定は岩田事務所の有力分野となりました。

年表