発展期

判例法形成への寄与

大正末頃から、太平洋戦争が勃発した昭和16年(1941年)頃にかけて、岩田宙造弁護士の名声と共に、岩田事務所はさらに大きな発展を遂げます。この間、我が国の政治・経済・社会は大きな転換期にありました。第一次世界大戦(大正3年、1914年)、昭和恐慌(昭和5年、1930年)、日中事変(昭和12年、1937年)の勃発などがあり、我が国は次第に軍国主義に傾斜していきます。

※岩田宙造弁護士及び山根篤弁護士らによる意見書
※岩田宙造弁護士及び山根篤弁護士らによる意見書

こうした時代背景の中、岩田事務所には数々の大事件の依頼があり、訴訟事件に関しては大審院判例として残されているものも多く、また、この頃には意見書(法律鑑定書)の依頼もさらに増加し、その一部は今日まで当事務所に保管されています(注1)。性質上これらをこの場で公開することはできませんが、中には、我が国の企業法務の歴史を作ったというべき重要なものが見受けられます。また、多くの若手弁護士が入所し、岩田宙造弁護士から直に指導を受けた門弟が最も多くなった時期もこの頃です。入所者の中には、日本初の女性弁護士の一人である中田正子弁護士(注2)もおり、岩田事務所に在籍して女性を対象とした法律相談を受け持つなどの活躍をしました。

民・商事一般の訴訟事件を多数受任したほか、久原財閥(久原房之助が日立鉱山などを基に形成したが、第一次世界大戦後の不況で苦況に陥った。)に関する債権債務処理の一切もこの頃受任しました。
さらに、日本統治下にあった台湾銀行の頭取から、昭和恐慌に際し本店を休業としないと背任が成立するのではないかとの相談を受けた際、岩田宙造弁護士は、「本店の営業を続けることが台湾銀行にとって利益になるのであれば背任にはならない。もし何かあれば、顧問弁護士の岩田の指示に従ったのみと答えればよい。」といった旨を助言し、結果として、台湾の混乱や役員の背任を回避したとされます(注3)。
このように、岩田事務所は、現在の企業法務における、いわゆる危機管理案件の先駆けとなるような事件を昭和初期から手掛けてきた歴史があります。


企業法務分野での活躍を拡大する一方で、弁護士会の関係でも、この頃、岩田宙造弁護士は重要な役割を果たしました。すなわち、現在、東京には三つの弁護士会があり、そのうちの第一東京弁護士会は、大正12年(1923年)、弁護士会に対する考え方を共有する当時の有力弁護士ら有志により東京弁護士会とは別に設立されたものですが、岩田宙造弁護士は有志の一員としてその設立に関わり、今でも、設立時の在野法曹の泰斗らとともに岩田宙造弁護士の胸像を第一東京弁護士会の会議室に見ることができます。

(注1)確認されるところでは、大審院判例は大正11年(1922年)から昭和10年(1935年)頃まで毎年2件ないし5件、法律鑑定書は少ない年でも年60件程度はありました。この一例として、昭和15年 2月21日大審院判決(再保険者と元受保険者による代位権行使)など判例百選に掲載されるような著名なものもありました。
(注2)昭和15年(1940年)に、明治大学女子部の同窓である久米愛、三淵嘉子と共に日本初の女性弁護士となりました。
(注3)『伊達利知回顧談 ききて岩田春之助 巨匠弁護士を語る』(伊達利知・岩田春之助)(1990・法律新聞社)242頁より。

年表